校長通信「耕心だより」
令和4年度修業式(講話) 「人は何のために生きるのか」 ~内村鑑三の言葉を手がかりに~
まずは進級おめでとうございます。それぞれ学年が1つ上がり,四月には新入生を迎え,上級生としての自覚をしっかりと持ちながら,加美農をさらに盛り上げていってほしいと思います。
さて皆さんは,「何のために勉強するの?」と問われたとしたら何と答えるでしょう。勉強の目的はそれぞれだと思いますが,「なぜ勉強するのか」という問いは,「なぜ生きるのか」という問題にもつながる根源的な問いです。人はなぜ生きるのか? 私もそう考えて悩んだことも何度もあります。こせば十代の頃,進路のことや家のことなど数々悩みを抱えていました。その時に考えたのは「今は悩みがあるかもしれないけれども,それは考えが未熟だからであって,大人になればきっと悩みもなくなるはずだ」という漠然たる期待を抱いていたのを覚えています。(その悩みが,生きている間つづくのだと悟った時の衝撃も…)
人は必ず何事かに悩みます。それを一言に集約することは難しいですが,どんな種類の悩みも究極的には,「なぜ人は生まれ,生きるのか?」との“生存の不安”に行き着くのではないでしょうか。これは人が必ず突き当たる永遠の問いなのです。それもそのはずで,この世に生を受けたどんな人であろうとも,自らの意志によって生まれてきた人はいないのです。生命誕生の神秘は奇跡的ではありますが,一方で,それは受け身なのだとも言えるのです。オギャーと叫んだ瞬間から,自分の言葉で人生を意味づけしていく「長い旅」が始まるのだとも言えるのです。
ふり返って高校時代に,忘れられない書物との出会いがありました。明治の時代,内村鑑三というキリスト教者にして魅力的な思想家の『後世への最大遺物』という一冊です。これは明治二七年夏,内村鑑三がキリスト教青年学校の学生に対して行った講演録で,口語体の読みやすい語りです。
〈人はいったい何のために生まれて,どのように生きるのが正しいのか?〉,そんな漠たる煩悶を抱えていた私に,内村鑑三は明瞭に,かつ力強くその意義を開示してくれました。今日は,その内村鑑三という人物が残した言葉を手がかりに,人生の意義について少し考えてみたいと思います。
幕末生まれの内村鑑三は高崎藩士の長男で,キリスト教入信のきっかけとなったのは札幌農学校への入学でした。その家族の死や病,失業,仲間や社会からの批判など,数々の苦難を乗り越えてきた鑑三は「人生の意義」を次のように説きます。
《私は何かこの地球にMemento(モメント) を置いて逝きたい,私がこの地球を愛した証拠を置いて逝きたい,私が同胞を愛した記念碑を置いて逝きたい。それゆえにお互いにここに生まれてきた以上は,われわれが喜ばしい国に往くかも知れませぬけれども,しかしわれわれがこの世の中にあるあいだは,少しなりともこの世の中を善くして往きたいです。この世の中にわれわれの Memento を遺して逝きたいです。》
明治27年といえば,日本が近代国家として最初の対外戦争となった日清戦争が起こった年です。内村鑑三は,その高揚と不安の時代を生きる青年たちに対し,ゆるぎない言葉で語りかけました。生きることを自己完結的にとらえていた私には最初はピンときませんでしたが,よくよく考えれば,たしかに私の「生」は自ら意志した結果ではなく親から受け継いだ命であり,それを「後世」という次の世代への縦軸の橋渡しでもあるのだ。さらに「地球」という横軸の発想(近年,SDG‘sという地球規模の視点があたり前に浸透していますが)が大きく視野を広げてくれました。
さらに,人が後世に遺せる遺物(レガシー)には,お金や事業そして思想(文学や教育)などがあるが,これらは誰にでも残せる訳ではない。そして,誰にでも残すことができる最大にして最高の遺物=〈人生の最高価値〉が何なのかを説きます。
《それならば最大遺物とはなんであるか。私が考えてみますに人間が後世に遺すことのできる,ソウしてこれは誰にも遺すことのできるところの遺物で,利益ばかりあって害のない遺物がある。それは何であるかならば勇ましい高尚なる生涯であると思います。》
《しかして高尚なる勇ましい生涯とは何であるかというと,(中略)失望の世の中にあらずして,希望の世の中であることを信ずることである。この世の中は悲嘆の世の中でなくして,歓喜の世の中であるという考えをわれわれの生涯に実行して,その生涯を世の中への贈物としてこの世を去るということであります。その遺物は誰にも遺すことのできる遺物ではないかと思う。》と説き,「他の人の行くことを嫌うところへ行け 他の人の嫌がることをなせ」といった格言とともに,歴史人物のエピソードを紹介します。
もちろん,これらの言葉はキリスト教信仰に深く根ざしています。私自身はキリスト教者でもなく,ごく一般の世俗的な高校生でしたが,そんな私にとっても,
《後世の人にこれぞというて覚えられるべきものはなにもなくとも,あの人はこの世の中に生きているあいだは,真面目なる生涯を送った人であるといわれるだけのことを後世の人に遺したい。》 という
独自の信仰世界を開いた思想家・内村鑑三の純粋なゆるぎない言葉は,“生きる意味”の何かを開示してくれた書物となったのでした。
皆さんには今日の話をひとつのヒントに,自分自身の言葉で「なぜ生きるのか」についての答えを自ら紡ぎ出し,これからの長い人生の旅に立ち向かっていってもらいたいと心から願い,修業式にあたっての講話と致します。
【参考文献】
内村鑑三 『後世への最大遺物・デンマルク国の話』(岩波文庫)
若松英輔 『内村鑑三をよむ』(岩波ブックレット №845)